泣ける!リンカーンで語られた芸人たちの6つの感動エピソード。

昨日、放送されたリンカーンリンカーンメンバーそれぞれが車に乗車し、芸人さんにまつわる感動エピソードを聞くという趣旨のものでした。久々のぐっさん登場に感激しながら、芸人さんたちの感動エピソードを聞くことができました。今回は、そんな「ミッドナイトリンカーン」の中から、感動したエピソードを書き起こしてみたいと思います。

1.奇跡の手紙

山口 これはとあるウェディングプランナーの方が体験した、素敵な結婚披露宴のお話です。

山口 先日、お手伝いさせていただいた披露宴でとっても素敵な奇跡が起きました。その新婦はお父さんのことがともて大好きなようで、一足先にあげた海外の結婚式でお父さんとバージンロードを歩いた時の幸せだって気持ちを嬉しそうに何度も何度もお話してくださいました。そこでその披露宴では、通常はやらないのですが、お父様から新婦へ手紙を読む事を設けました。愛する娘に伝えたい、素直な気持ちを手紙に綴ってもらうよう、お父様にお願いしたところ、伝えたいことが沢山ありすぎて、うまくまとめられるかな?と、言いながら、快く受けていただきました。

山口 そして迎えた披露宴当日、お父様の席に伺い、お手紙書いていただけましたか?と尋ねると、お父様が嬉しそうに、胸ポケットから取り出したのはくしゃくしゃの紙。それは何度も何度も書き直し、読み返した後のある紙。しわしわになったお手紙でした。披露宴が終盤にさしかかり、本来なら花嫁のお手紙の時間。そこで、新婦からのお手紙の前にお父様から手紙を読んでもらいました。娘が生まれるとわかった瞬間、嬉しくて嬉しくて、幼い頃はおてんばだった君。怪我をしないか毎日、心配になって。そんな愛のある毎日から始まりました。そして、その中には、こんなエピソードが。

山口 君は小学生の頃、いじめにあっていましたね。毎日、泣きながらから帰ってくる君。学校に行きたくないとだだをこねる君。厳しく叱っていた時もありましたね。けれど、君が眠りに付いた時、きびしく叱ってしまったことを後悔して、君の寝顔を眺めていました。この子だけは、何があっても守り抜かなければ。どんなことがあっても。自分はこの子の味方でいよう。そう誓い、寝ている君の頬をなでるしかなかった。私にはできなかった。このエピソードがお父様から話された瞬間、新婦はせきを切ったように、顔環覆って涙されました。続いて涙をながしながら、花嫁が手紙を読む番、その手紙の中には、こんなことが書かれていたのです。「私は小学生の頃、いじめにあっていました。」「辛くて辛くて、学校に行きたくなくて」そうお父さんに伝えると、厳しく怒られたこともありました。でも、泣きながら私が布団をかぶっていると、お父さんは私の隣にそっときて、「私のほっぺたを何度も撫でてくれましたね。」その手が暖かくて、やさしくて、「とても安心して、明日もがんばろう」そう思いました。お父さんはきっと、私が寝ていると思っていただろうけど。私は、毎晩起きていたんですよ。お父さん、ありがとう。

2.僕とおばあちゃん。(バットボーイズ清人さんのお話)

山口 もの心ついた時から、僕にはおかあさんがいませんでした。母親代わりにぼくを育ててくれたのは、目の不自由なおばあちゃん。でも、おばあちゃんは目が不自由とは思わせないほど、明るくて元気で、そんな大好きなおばあちゃんとぼくは、ずっと2人で一つで生きてきました。台所ではおばあちゃんが慣れない包丁をスームーズに使って料理をする横でぼくは、お鍋にごみが入ってないか見守るのがぼくの役目。そんな子供の頃の出来事で、今でも思い出すのが、ぼくが保育園に預けられて間もなくの事。

山口 送りの時は僕と一緒にいて、手を繋いでいるのでいいのですが、目が不自由なおばあちゃんは迎えに来るのが一苦労。なので保育園から帰る時は、決まって僕がいつも最後。そんなある日、いつものように友達と遊んでいた子が、1人、また1人と迎えに来て結局、ぼくはまた1人ぼっち。小さなジャングルジムで遊ぶことになりました。しかし、辺りが暗くなってもおばあちゃんは迎えに来ません。いつもならもう迎えに来ている時間なのに。

山口 「ぼくは、おばあちゃんに捨てられたんだ」と思い、不安でいっぱいになって、泣きそうになって、でも先生にばれたくなくててずっと下を向き、堪えていました。どのくらい時間が経ったので死しよう。「清人くん、迎えにきんしゃったよ」という先生の声が聞こえました。顔を上げると、そこにはおばあちゃんかせいました。ぼくは、「なんで、こんな遅いと」と近寄ると、おばあちゃんのおでこに大きなタンコブがありました。襲うなってごめんね、道に迷って電信柱に頭ばぶつけてね。おばあちゃんはぼくを捨てるどころか、一生懸命ぼくを迎えに来てくれていたのです。その日の帰り、ぼくはいつも以上におばあちゃんの手を握っていました。

山口 おばあちゃん、いつまでも長生きしてね。今度、ひ孫の顔見せにいくけんね。

3.俺の息子

山口 仕事がまったくなくて、殆ど毎日家にいた8年前のある日、当時5才だったぼくの息子が僕に向かって「パパがもっと面白くなって、いっぱいテレビに出られるようになるギャグ考えたからあげるわ。」と、ギャグを披露してくれた。それがあの「チャー」。最初はまったく受けなかったけど、息子がくれた大事な大事なギャグだから、やり続けました。するとどうでしょう。今では、すべり知らずの歴史的なギャグとなりました。息子よ、ありがとう。

4.兄さんの背中(レギュラー 松本康太)

山口 今から10年ほど前、ぼくたちレギュラーが大阪で活躍していた頃。あるある探検隊のネタもできておらず、月給もたかだか5000円きくらいしか貰っていなかったぼくは、次長課長の河本さんの家に居候させてもらっていました。毎日、実家から大阪に通っていた僕に、「いちいち大阪の実家から通っていたら、芸人として成長せぇへん。俺の家に住め」と言って、毎日の食事代まで出してくれました。それだけでもありがたいのに、テレビやビデオなんかも買ってもらい、暇な時はずっとテレビみて勉強しときー。と、言ってくれました。やがて河本さんが東京に進出し、ぼくは大阪で1人暮らしを始めて、1年ほど経った頃、次長課長さんが東京で初のソロイベントをやるというので、ぼくは新幹線の往復切符だけを握り締めて東京へ。

山口 当時、河本さんは大阪の頃とは違い、テレビの仕事はなく、バイトで生計を立てていると聞いたのですが、いざイベントが始まると、お客さんは超満員。爆笑に次ぐ爆笑で。会場の後ろには、ぼくも含め後輩芸人が10数名見学に来ていました。東京で初のソロイベントを成功させた河本さんは、とてもまぶしく、輝いて見えました。

山口 そのイベント終わり、河本さんはそのイベントに来ていた後輩全員を飲み会に誘いました。さらに食事の後、ぼくたちが「2次会行きましょうよ!」と誘うと、「せやな、来てくれたし行こか」と、全員をカラオケに誘ってくれました。河本さんのタンバリン芸も冴え渡り、飲んで騒いで3時間くらい経った頃、河本さんが突然ぼくだけを呼び出し、こう言いました。「今日、いくら持ってる?」ぼくが帰りのチケットしか持っていないことを伝えると、河本さんは、お店のカウンターへ行き、突然、土下座をして、店員さんにこう言ったのです。「悪気はないのですが、今、お金を持っていません。僕は次長課長の河本というもので、芸人をしています。後輩をつけて来たのですが、お金を持ってくるのを忘れました。大人として非常識なのは百も承知なのですが、ここはどうか出世払いにしてもらえませんでしょうか。」すると、その店員さんは、「わかりました。今日だけですよ。どうぞ朝まで使ってください。」と、笑いながら言ってくれました。その後、河本さんは何事もなかったかのように部屋に戻り、タンバリンを手に取り盛り上げていました。

山口、兄さん、ぼくも兄さんみたいなカッコイイ芸人になりたいです。

5.涙のクリスマス(くまだまさし)

山口 今から3年前のクリスマスイブ。12月24日はぼくと奥さんの結婚記念日。そして、それだけではなく、3年前のクリスマスイブは、ぼくと奥さんにとって特別な日でありました。それは、娘が生まれて始めてのクリスマスイブであり、家族3人で過ごす始めての記念日だったのです。まだ0才だし、クリスマスなんて認識はないだうけど、娘にとってはこの世に生まれて初めてのクリスマスだから、立派なプレゼントを買ってあげたい。ぼくはずっと思っていました。でも当時は、収入もなく、とても豪華なプレゼントなど買うことができません。おもちゃ屋さんへ行き、何とか買えたのは、お風呂で遊ぶ300円のアヒルのおもちゃでした。

山口 その店にはすごい高いおもちゃや体の倍もある大きなおもちゃを買ってもらっておお喜びする子供たちの姿が。それを見て、ぼくは情けなくて。そして、娘に申し訳なくて、ふいに涙がこぼれてきました。ふがいない、本当にふがいない。34歳になって娘にこんなプレゼントしか買ってあげられないのか。自分のような芸人は家族を持つ資格なんてないのかもしれない。その日、ぼくは沈んだ気分で仕事を終え、300円のおもちゃを手に、家に帰りました。ドアを開けると、奥さんが娘を抱き「おかえり」と笑顔で迎えてくれました。そこには、いつも通り暖かい家族がいました。

山口 そして中からは、とても良い匂いがしてきました。勿論、豪華ではありまらんがて、奥さんが腕によりをかけてパーティーの準備をしたくれていたのです。3人で過ごす初めてのクリスマス。そし、結婚記念日。「お腹すいちゃったから、早く乾杯してご飯食べよ」奥さんが言ってくれました。ぼくは気を取り直し、食卓へ。1口食べたからあげはびっくりするくらい美味しくて、奥さんと娘はパーティーの間、ずっと笑顔でした。

山口 そして、いよいよプレゼントトを渡す時、ぼくはどこか後ろめたい気分でした。僕は娘にアヒルのおもちゃを手渡しました。勿論、0才の子ですから、それが高いか安いか何てわかりません。でも僕は、父親として情けなくて、情けなくて。奥さんはそんな僕の気持ちを全て見抜いていたのでしょうか。「せいな、よかったね。パパが買ってきてくれたんだよ。」「じゃあ3人で一緒にお風呂入って遊ぼうか。」娘と奥さんが湯船に入り、アヒルをもぐらせたり、浮かせたりして遊んでいました。娘の笑顔はキラキラに輝いていました。

山口 ほぐはそのと時の娘の笑顔を、何より奥さんの優しさを一生忘れません。

6.天国のオカンへ

山口 おかんへ、あなたはとてもユニークな人でしたね。俺が1兆個のギャグがあると言うと、私には2兆個あるで。何て嘯いて。代表ギャグは「どすこい、どすこい、ネギちょうだい」かな。親子で色々な番組に出せてもらいましたね。今思えばFUJIWARAとして大事な時期には、いつもオカンのキャラに助けられていたような気がします。

山口 2008年の暮れ、大阪の実家から1本の電話が掛かってきました。親父からでした。朝起きたら、おかんが冷たくなって動かない。たぶんダメだと思う…。というものでした。心筋梗塞。突然の訃報。一瞬で体の血の気が引いていくのがわかりました。2日前大阪のバラエティー番組で共演したばっかりだったから、頭の中を整理するのに時間が掛かって。しばらくして、すごい罪悪感が襲ってきました。日ごろからもっとやさしく接しておけばよかった。いつからか、あかんと会うのは仕事で共演する時ばっかりになってましたね。色んなバラエティーに出るうちに、あかんへのハードルが上がって、俺自身ももっとできるだろうと、ダメ出しばっかりしたり、親子漫才のネタ合わせでイライラしたり、芸人扱いしてしまっていましたね。考えてみたら、親孝行せな年なのに、いつまでも親の脛をかじって。情けないです。ごめんな…。

山口 でも、おかんはテレビに出ること自体はすごく楽しみにしていたよね。特にリンカーンでは、大竹さんとキスしたり。おかんメインのスペシャルを組んでもらったり。大好きな浜田さんにもいっぱい突っ込んでもらったな。そういえば天国から見てたかもしれないけど、松本さんがおかんが亡くなってすぐに仏壇に手を合わせに来てくれはったんやで。おかんミーハーやから、嬉しいやろ!もう、3回忌も過ぎたのに、いまだに著名人の方が「おもしろいお母さんだったね」と言ってくれます。

山口 その度におかんの偉大さを痛感します。それからは脛をかじらずに、がんばっていきますね。あなたは私にとって、最高の母であり、3人目のFJIWARAでした。これからも天国で見守っていてください。